児童福祉の立場から少年法を考える
児童自立支援施設職員の立場より

1.児童自立支援施設とは
児童自立支援施設(旧教護院)は、児童福祉法44条で定められ、「不良行為をなし、又はなすおそれのある児童及び家庭環境その他の環境上の理由により生活指導等を要する児童を入所させ、又は保護者の下から通わせて、個々の児童の状況に応じて必要な指導を行い、その自立を支援することを目的とする施設」である。全国に58ヵ所あり、国立の施設は武蔵野学院ときぬ川学院がある。
 国立の施設に入所してくる児童は、地方自治体の施設で無断外出、対職員暴力などの不適応行動があり、対人関係がうまくとれず信頼関係が築けない児童が多く、また、家庭裁判所の審判で強制的措置が付いてる児童が多数を占める。入所年齢は平均が中学2年生で、小学生から年長児(およそ18歳)にわたっている。
 児童自立支援施設は、小舎夫婦制と交代制がある。小舎夫婦制は、職員である夫婦並びにその家族が同じコテージの中で児童と一緒に起居を共にし、擬似家庭のような形態を採っている。交代制は、1ヵ寮を数名の職員がローテーションを組んで勤務をし、児童の指導にあたっている。現在小舎夫婦制が全国で22ヵ所、交代制が36ヵ所あり、今日、小舎夫婦制が減少傾向にある。
 教護院時代は、教育と保護の観点で問題行動が無くなるように「児童を鍛える」的な関わりで、職員の言う通りに従い我慢させるような指導が行われがちで、時には体罰も指導のひとつとされていた。
 しかし、10年位前から、児童相談所や家庭裁判所の意見をもとにし、児童自身も自分が何をしなくてはいけないかということを職員と考え、一緒に自立支援計画を立てて生活していくようになった。
 処遇計画は、入所から退所までの指針、児童自身の生活の目標、それぞれの児童自身の性格上の課題、退所後の自立を目的としている。家庭に戻ってからの家族の再統合が必要なケースか、自活せざるを得ないケースかなど、児童と生活しながら、児童の成長・意思を踏まえて、処遇計画の見直しを行い、関係機関との連絡調整をしている。
 児童自立支援施設と少年院との大きな違いは、児童が職員と一緒に生活する中で培った信頼関係をもとに、同じ職員が退所後にも援助を行っているということである。退所後に児童からの電話、手紙などの通信があったり、施設に訪問してきたりし、精神面でも色々な関わりが持たれている。児童の
アフターケアとしての仕事だけではなく、人間としての相互の関係があり、そこが職員としてはやりがいがあり、時には子どもの成長に心がホッとすることもある。
 以前に逃走退院し、少年院を経た後、やくざに追われた児童が困り果てて、寮長に救いを求めてきた事例があった。施
設との関わりが切れた児童ではあるが、一緒に就職先を見つけ、その後も仕事の範囲を超えて、児童とずっとつながりながら支えている。退所した後になって「先生に言われたことがようやくわかった」と、連絡してくる児童もいた。生活を共にしている時にわかってくれればと思うこともあるが、社会経験や支えがあってこその成果で、時間がかかるのが私たちの仕事だと思う。
 職員は、児童との生活の中でほとんど休みを取れないで状態で指導を行うときもあり、気持ちの上でも緊張感が続きストレスを抱えることもある。そこで現在、職員間の協力によりそれを昇華できるような、サポート体制つくりが問われている。また、児童の暴力への対応、ストレス回避のためのスキルの学習、発達障害の児童への関わり方など具体的な研鑽が行われている。
 国立の武蔵野学院ときぬ川学院には、強制的措置を使うことができる寮に鍵のかかる部屋がある。強制的措置を衝動的な行動や無断外出などの問題行為が起きた時に、児童の精神状態の安定の場として使ったり、自らの課題に注視できるように個別の指導が必要な時に使用したりする。児童が「イライラ」を解消したり回避できるスキルを学ぶ援助をし、児童にとって最善の利益を考えている。児童の権利擁護の観点から、使用目的や指導指針が立てられ、児童にも理解を即しながら使われている。児童は一人一人に違いがあり、職員はそれに応じて試行錯誤しながら行っている。
 きぬ川学院の普通寮舎では、1ヵ寮12名程度の児童が暮らしており、在院期間が長い児童(先輩)が新入生(後輩)の生活の援助や心を支えていくといったピアサポートが行われている。児童はその中で、互いに相手の気持ちを感じながら集団の中に所属感を持ち、仲間からの受容体験を通し人間関係がうまくいく方法を学んでいき、情緒を育てていく流れがある。その他、児童は生活指導、学習指導、職業指導(作業)、スポーツなどを通じて人との関わりを学んでいる。施設そのものが醸し出す環境や雰囲気も児童にとって大切なものである。在院期間は平均して1年7ヵ月くらいで、児童は1年を過ぎる頃には他の子を思いやる気持ちが育ち、心に余裕が持てると、自分の将来について自ら向き合っていこうという気持ちになる。
           
2.生活の中で「育ち直し」
 児童自立支援施設の基本的考えは、子どもの心身の成長を図るということである。再養育、育ち直しが基本となっている。
 例えば、児童福祉法28条で入所した被虐待児が、過去に母に叩かれたり、火傷を負わされた体験があり、虐待を受けたためのトラウマを持っていたというケースがある。施設では、職員やほかの児童から信頼をされ、部活や生活を一生懸命やって、1年を過ぎ職場実習に出るようになった。しかし、仕事が終わって寮に戻ってきたときに、不安定な児童に「うぜぇ」と言われ、それに反応し暴れ出し、「少年院にやってくれ!」と言い出した。気持ちを落ち着け、少しでも前向きになるために集団から一時離して個別の指導を行った。その児童の心の成長を図るのにはとても難しいものがある。不満や、孤独感を言語化したり、人との関わりで癒すことのできる力を持てるような援助を通し、育ち直って行くしかないのである。
 児童自立支援施設に入所した児童のうち、被虐待経験をもつ児童の家庭で配偶者間にDVがあったケースは86%くらいある。ここに入所してくる児童たちは家族の問題をたくさん抱えている。虐待経験者が圧倒的で、虐待の連鎖をいかに切っていくかが課題である。親子関係の調整や再統合が必要なケースもあれば、「親を捨てろ!」と言いたいケースもある。そんな中で、児童が自分の親のことを親子というレベルではなく、同じ人間として客観視できる機会が施設にいる間に持てる。職員である夫婦やその家族と同じ屋根の下で暮らしながら、自分が今まで経験した家庭と違ったものを感じ、新たな信頼関係を作ることで、自分の親やこれからの家族のあり方を考える大きなきっかけになっている。
 小舎夫婦制の場合は、職員の家族の姿を児童が見ている。生活の中で失敗をしたときに、そのことでイライラしたり、黙って固まってしまったり、「すみませんでした。もうしません」と即座に口にする児童がいる。同じ失敗を何回もして、注意を受けるときには、児童がなぜ注意されているかを理解できていない場合があり、寮長が注意した意図や理由についてそれを翻訳してあげる立場として副寮長(夫婦制であれば寮長の妻)の関わりがあり、そのことが対人関係スキルを得る有効な手段となっている。
 「(自分は親に)育ててもらえなかった人なんだなぁ、だから自分が家庭をもった時にはこんな親でいたい」「子どもを大事にしたい」と言うことも多いが、「私は結婚しない」と不安の高い児童もいるのも現実である。
 虐待されていた児童が入所中の親の面会で、親が虐待した事実を謝罪したことで、「親に受け止められた」という気持ちを持った児童は、家庭復帰を希望することが多い。しかし、自活しながらの関係修復に時間にかけながら行うように助言されて同居を希望し、生活を始めても、後になって「やはり親は変わらなかったです」と言ってくることがある。児童の将来にわたって相談できる大人が必要で、職員はそれを担っているところがある。児童の自立支援のために親や学校、児童相談所、地域を巻き込んだサポートが必要となっている。
 児童自立支援施設は塀に閉ざされていない開放処遇と集団生活を通しての集団処遇が行われている。児童個々人の内面の成長を図るための個別処遇は、個別の生活をするということではなく、個別的な対応を必要に応じてしていくということである。集団生活をしていく中でストレスが溜まったり、表面的には適応してしまうことで内面が深まらないときに、それを昇華させたり整理する意味で一度集団から離す観察寮や普段の生活の中での個別の面接が行われているのである。
 生活を共にしている職員にとっては、擬似家庭の中から、育ち直って行く様子を共感できる喜びは大きい。

3.福祉的アプローチ
 福祉的アプローチの基本は、児童の内面性や養育過程のメカニズムに焦点をあて、それを非行事実だけではなく児童のおかれた状態を丸ごと受け入れた中での関わりにある。
 家庭裁判所から送られてくる資料は、非行を取り巻く事実に関しての内容が多く、社会調査に関する記録の中からでは、子どもの実像がなかなか読み取れないことが多い。欲しい情報は、児童がどのように育てられてきたのか、そのときに周りの大人がその変化にどう気付き関わってきたのかこなかったのかといったことである。それを理解する中で児童を育てる手立てを見つけている。司法としての「少年」と児童福祉としての「児童」の概念の違いがあることを理解することが大切だと思う。
 福祉的アプローチは、児童がどう育ってきたのかを重視する。例えば、母が子どもに愛着を持って育てていたのか、学校の中でその児童の行動を誰かが見ていて関わったのか、居場所はあったのか、など原点に戻ればそこから育ち直しをしていけると思う。
 施設の生活の中でも児童の家族問題について、「お母さん、その時抱きしめてあげればよかったんだね。そうすればイライラしなくなったかもしれないね。」とそれを児童、家族、職員が共有できることが大事なこととなってくる。児童の社会性が育つのは、母子関係から親子関係、家族関係、親戚、仲間、学校社会と順番に広がっていくが、母子関係につまずいていると友人関係を築こうとしても築いていけないものである。
 児童が施設で生活する中では、無断外出やけんかなどの失敗を通して職員やほかの児童が関わり、それを通して自分を自制する感情が生まれ、自己規制できるようになる。児童は生活する中で受容され、その中で安心感を持ち、自己の立場を認識するようになり、期待に応えたいという前向きな気持ちになる。そのような過程を通して自己肯定感を持つようになるのが福祉的な考え方である。
 最近児童自立支援施設では、発達障害の児童の入所によって各施設ではその対応に苦慮しているところがある。集団生活の中で感情の交流がなかなかとれずに、パニックになったり、奇異な行動に出たりする児童がいて、そのことでほかの児童の不満をかったりし、集団が不安定になることがある。その児童にとっては、ある程度の枠組みの中で周囲の状況を理解できるような視覚的なアプローチやカウンセリングが有効となっている。寮生活の中では、いろんな課題を抱えた児童がいることをすべて受け入れることによって相手との距離を学習するといった良い契機となっている。
 児童たちは人間関係でどう処したらいいかわからない。対人関係のスキルがない。人間関係の中でストレスを感じても、どう表現すればいいのか、ムカツクことを仲間に言われても、どんな言葉に直せば自分の気持ちを表現できるのかわからない。その現象について、なぜそういった行動しかできなかったのかと児童の立場になって見ていく。生育暦の中からの読み取り、一緒に生活する中で児童に適切な解決のスキルを提示したり、集団の雰囲気を使ったり、気分を変えるために場面を変えたりしながら、問題に対処している。
 衝動的・反抗的であっても、「その行動を憎んでも、子どもを憎むな!」という言葉があるが、福祉的アプローチは「丸ごと児童を受け止め、児童の側で、寄り添うこと」であると思う。
 
4.贖罪教育について 
 少年院では、被害者への償いとして「贖罪教育」をしている。しかし、児童自立支援施設では、罪の重さや相手の気持ちになることを感じたり表現したりするまでに育っていない児童が多い。児童には精神年齢や発達段階の違いがあり、自分のことで精一杯で、自己理解がされていない段階では相手の気持ちに踏み込んだアプローチができない。
 例えば、命日に線香をあげるようにと指導されると児童は素直に線香をあげるが、被害者のことやその親のことまで思いがつながらない。その根っこのところを掘り起こしていかなくてはいけない。謝罪の気持ちを相手に伝えることはできるが、逆の立場で自分を見つめられるようになるまでには、大人との感情の交流ができ、集団の中での自らの位置が作られ、育ってきてからである。児童が他の児童や職員が感じていることを「○○ちゃん、こんなふうに感じていたんだぁ」という言葉で表現できるようになって始められることではないかと思う。
 福祉的ないわゆる贖罪教育は、人の気持ちを思いやる下地作りをすることで、時間のかかることである。
 
5.「共感力」の乏しい子の「育ち直し」
 最近の児童の特徴としては、「育てられていない子」が多くなってきていると感じる。昔は親でなくても、おじいちゃん、おばあちゃんや近所のおじさん、おばさんなど別の大人の愛情を受けて育ってきた児童が多かったが、それがまったく見えない児童が多い。相手に対する共感性が乏しいし、職員との感情的交流が図れない。これは不安な時に抱きしめてくれる親がいなかったなど、大人の存在が見えない児童が多いと思う。
 また、気持ちを表現するのがへたな児童が多い。例えば「痛い!」という言葉しか出ないので、どこがどんなふうに痛いのか、自分の気持ちを言葉で表現できない。これは大人が関わって、児童の気持ちを受け止めてもらった経験が少ないための結果だと思う。自分を丸ごと受け止めてもらえる経験を積み重ねて行くと共に、相手の気持ちを感じ、共感する心が育っていくと考える。
 昭和50年くらいから、武蔵野学院では重大事件の児童9人のうち1人は少年院へ送致されたが、あとの8人は通常通りの退院をして、家庭裁判所との継続なく生活している。ここに、重大事件を起こした児童が、児童自立支援施設で処遇されることが困難であるとは断言できないデータがある。
 いちばん大切なのは、精神的な未熟性のある児童と一緒に生活しながら、基本的な生活習慣の獲得や対人関係の調整を福祉的なアプローチで解決していくのが、児童自立支援施設の立場であるということだ。集団という枠組みの中で、薬や治療でもなく、集団という枠組みを使って生活をしながらのアプローチは、発達の過程にある児童にとって必要不可欠なことだと思う。年齢を引き下げての厳罰化は社会的な要求であるように思える。児童が非行に至った背景を見極め、児童にとって今何が必要なのかという「見立て」がきちんとされることが大切なことである。重大事件=少年院への措置が可能といった、児童の行動にだけ焦点が当てられている安易な判断であってはならないと思う。児童自立支援施設とは、強制教育ではなく、常に子どもの側の立場であることに存在意義があると考える。
 児童に関わる問題は、福祉、司法、教育、医療、心理がそれぞれの分野の専門性を駆使してどんな連携ができるかにあり、そのシステムの確立が急務である。
 5年前の『少年法改正』後の結果報告が無いままに、次へと進んでしまうことに、危惧の思いを募らせている。
(2005年4月9日 講演より)

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