佐世保事件の「決定」を読んで
元家庭裁判所調査官の立場より

 佐世保市の小学校で、6年生の女子児童が授業時間中に、クラスメイトの頸部をカッターナイフで切って死亡させた事件は世間に大きな波紋を呼びました。
 9月15日、長崎家裁佐世保支部で開かれた少年審判は、児童に「2年間の強制措置」つきの「児童自立支援施設送致」を言い渡し決定の要旨を公表しました。
 しかし、事件はこれで終わったわけではありません。加害児童を含むグループの人間関係はどうだったのか、事件の本当の原因は何か、親・教師はこれからどうしたら良いのかなど、私たちが考えなければならない課題はたくさん残っています。
 家裁が認定した事件の経緯は、「未成熟で、口頭でのコミュニケーションが不器用な少年にとって、交換ノートやインターネットが唯一安心できる居場所になっていた」こと。「それらに参加した被害者がネット上の少年のオリジナルな表現を無断で使用し、注意した少年に対する反論を交換ノートに記載し、さらにホームページ上にも少年への否定的な感情を直截に表現した文章を掲載した」こと。「少年はそれを『居場所』への侵入と捉えて怒り、いったんは回避的に対処したが、被害者による侵入が重なったため怒りを募らせた」こと。そして、「とうとう被害者に対する確定的殺意を抱くに至り、計画的に本件殺害行為に及んだ」というものです。
 悲劇との関連で家裁が指摘した少年の心の未成熟とは「怒りの自覚とその対処方法の二極化」です。
 「情緒的な分化が進んでおらず、愉快な感情以外の感情表現に乏しかった少年は、周囲からおとなしいが明るい子と評されていた。成長に伴い不快感情のうち怒りの感情を認知できるようになったが、怒りを適切に処理することができず、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して発散するか、という両極端な対処行動しか持ち得なかった。また、少年には怒りを回避するとき空想に逃避する傾向や、強い怒りを激しく感じたときにとった行動をのちに問われても、思い出せない場合があることなどから、時には、短時間、処理できない強い怒りの反応として解離状態となり、攻撃衝動の抑制が困難になるものと推測される。ただし、その状態は重篤ではなく、何らかの障害と診断される程度には至らない。」
 平易な言葉に直せば、「この子は普段おとなしくて明るい子だが、怒らせると相手を避けるようになり、怒らせ続けると爆発することもある。ひどく怒らせると自分を押さえられなくなり、その時とった行動を後から思い出せない場合もある。でも、その傾向は極端ではなく、誰にもあり得る程度である」というのです。
 以上が家裁の決定が指摘している、事件の経過とそれに結びつく児童の人格上の問題点です。
 対人関係が苦手な子は増えています。パソコンの世界に居場所を求める子どもの数も決して少なくはありません。不愉快な目にあったら最初は我慢していて、我慢できなくなったとき爆発するのは、子どもに限らず誰にとってもありふれた心の動きです。この子のように我慢したりせず、もっと簡単に切れてしまう子も珍しくありません。
 精神鑑定をしたが、よく判らなかった。他の子と区別できるほどの問題は見つからないとなぜ言えなかったのでしょうか。決定要旨を繰り返し読んで、私は悲しくなりました。
 決定は親の問題についても「通常の監護養育のほか教育面にも関心を持って接してきたが、情緒的な働きかけが不十分で、おとなしく手のかからない子として少年の問題性を見過ごしてきた」と指摘し、「それが直ちに改善されるとは考えられない」とまで言っています。
 これもひどい見方です。児童が愉快な感情を身につけて、おとなしく明るい、手のかからない子に育ってきたのは、親からの情緒的な働きかけが他の子よりたっぷりと与えられてきたため、と、なぜ素直に認められないのでしょうか。
 重大事件の加害者だからといって、必ず性格上の欠陥があるとは限りません。逆に、重大な事件であればあるほど、原因を加害者個人の問題に絞り込んだり、親の育て方に納めてしまったら、かえって、今の社会が抱えている本当の原因から人々の目をそらしてしまうのではないでしょうか。

 以上の理由から、私は決定の主文「児童自立支援施設に送致する・向こう2年間、強制的措置をとることができる」にも、強い疑問を持っています。
 この児童の場合、家庭内で養育を続けさせる道はなかったのでしょうか。すでに明らかになったように、特定の個人との間で特別なトラブルさえ生じなければ、この悲劇は起こらなかったのです。児童の養育に関しても家庭も学校も、事件が起こるまでは、何らの困難も感じていたとは思われません。それなのになぜ長期間、家庭・学校から引き離して施設内に収容し、かつ2年間の強制的措置まで付ける「懲罰的な教育」が行われなければならないのか、説明はきわめて不十分です。
 本来、強制的措置、つまり児童を特別な部屋に拘禁することは、福祉施設の性質に馴染まないので、特定の児童に対してそれが必要になったときに限って、施設側から詳しい理由を付して家裁に許可を求め、家裁が「事件」として受理し、調査・審判の上でその可否を決定するのが、従来行われてきたやり方です。
 本件の場合、児童は未だ施設に収容されていない段階ですから、施設側では強制的な措置の必要性を判断できるはずがありません。強制的措置の許可申請がないのに家裁が先行して許可を与えているのです。
 決定の中で、「この少年は集団内処遇を実施すれば、対人関係の行き違いから他の児童に危害を加える可能性を否定できない」という理由付けをしていますが、決定理由のどこを捜してもこの児童が施設の他の児童に危害を加えるおそれなど見いだすことはできません。
 審判の少し前、法務省から法制審議会に少年法制の「改正」が諮問されました。そこでは、14歳未満でも必要に応じて少年院に収容できるようにするという点が挙げられています。最近、14歳未満の児童による事件が増えたから、というのが理由のようです。佐世保事件のようなショッキングな事件の場合には児童自立支援施設のような「福祉施設では示しがつかない」と法務省や裁判所は考えているのです。
 この事件の決定は、それらの意向を先取りして、児童自立支援施設を無理矢理にでも、少年院の代替施設として使おうとしている、とでも考えなければ理解できない決定のように、私には思われるのです。

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