五年後の見直しを前に考えること
 作家の立場より

 2000年の少年法改正に悔し涙を呑んでから、ずいぶんと時間が経ったような気がします。
 山形マット死事件が発端になった少年法改正の動きは、一度押し戻された後に、佐賀バスジャック事件、愛知県豊川市の老女殺害事件などが契機となって、熱狂的に加速しました。
 あの頃、改正反対のための集会や署名活動に参加した私は、「保護主義」という理念が一般の人たちにまったく省みられないことを実感して暗然とした気持ちになりました。
 自民党国会議員の「おいこら的オヤジ性」に負けたという気持ちもありましたし、民主党が法務委員の首をすげかえて改正賛成に寝返ったことに対する憤りもありましたが、なによりも反対運動の基礎となっている思想が一般の人に届かなかったという無力感でいっぱいになりました。
 日本における保護主義という思想は、アメリカの国親思想と東洋的な慈愛の観念が結合したものなのでしょうが、いかんせん具体的な大きな事件の前では、ひらひらとした抽象にしか見えないのです。
 その後、私は裁判官の井垣康弘さんの呼び掛けで始まった、少年司法の実務家と法学者、ジャーナリストなどで構成された少年問題ネットワーク(インターネットによる会議)に参加するようになりました。実務家の人々が抱えている現場感覚から、保護主義を語るリアルな言葉を導き出せないかと考えたからです。2003年春からは篤志面接委員として少年院の内部で収容された少年達とふれあうようにもなりました。
 改正後の四年間をふりかえってみると、反対運動にかかわっていた頃には見えなかったものが見えているという感覚もあります。なによりも、日本の少年司法は予防と再発防止の部分が弱いようです。
 子どもと少年の問題を初期のうちに手当するべき立場の児童相談所は各地方自治体まかせであり、プロ意識は全国均一でなく、予算も人材も限られているようです。
 再発防止の要となる保護観察の分野では保護観察官の実質的な数は全国で八百人あまりだといいます。約五万人の保護司がボランティアとしてこの制度を支えているわけですが、現在のように収益性の低い労働が海外に逃げている環境では成人も少年も雇用先を確保するのが難しいといいます。これは日本全体の産業構造の問題であり、地域の問題なのです。
 事件を起こさせないシステムが未熟なままなので、いったん事件が起こればいろいろと融通のきく警察や少年院という制度にもたれかかる。「少年法改正五年後の見直し」を前に、触法少年に対する警察の権限強化や触法少年の少年院収容といった法改正が持ち出されているのは、そういう現場主義のあらわれなのでしょう。「保護主義」はさらに後退を続けているのです。
 そうした状況に一石を投じる方法はどのようなものなのか?
 さらに考えていく必要がありそうです。

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