子どもたちは変わったか
毛 利 甚 八 

今、子どもに対するオトナたちの視線が厳しくなっているのを感じます。

神戸市須磨区の児童連続殺傷事件、佐賀のバスジャック事件をはじめとするさまざまな少年犯罪に、オトナたちは驚き、狼狽し、怒り、苦悩しています。「これほど日本は豊かになったのに、貧困とも飢えとも無縁の恵まれた子どもたちが、たいした理由もなく人殺しをしてしまうのは何故なのか?」

オトナたちは子どもの倫理観が不足していると感じ、子どもを甘やかしてきたことに後悔しているのでしょう。少年法は昨年11月に改正法案が成立しました。教育基本法もまた改正の準備中です。

法案を変えようとするオトナたちは「子どもが悪くなった」と考えているように見えます。子どもに規範という高い壁を作ってみせ、壁を超えることができなければ叱る。どうやら、そういう方向に向かっているらしいのです。

お気の毒に。いやいや、子どもが気の毒なのではありません、オトナが気の毒なのです。ちっとも気がついていないらしい。

子どもたちは、今の日本のオトナの働く姿、遊ぶ姿、地域での暮らしぶり、人間関係のあり方を学んで、今のようにあるはずです。子どもの姿がいびつだと言うのなら、まずは自分の姿を疑ってみるのがオトナというものではないでしょうか。今、動揺しているのは子どもではなく、オトナ社会の生き方であり、価値観です。

二〇世紀の間に、日本人は宗教心を捨て、農業や漁業を捨て、故郷(地方)を捨て、哲学を捨てました。その代わりに得たものが、お金、多くの気晴らしの方法、メディアによってカタログ化された情報です。

おおむね日本全体の体質が「作る」ことより「消費する」ことに傾いているように見えます。モノを作ることには人格の陶冶が含まれています。技術を向上させるためには自分自身をコントロールすることが不可欠になるからです。ところが消費には人格が必要ありません。手の中に、値段に応じた札束があれば、人が成熟しているか否かを問われることなく結果(商品)を手にすることができます。

モラルの希薄な経済社会を必死に作り上げる一方で、地域の人間関係や生きることの意味を問う内省的時間をおざなりにしてきたのが二〇世紀後半の日本でした。日本経済が沈没していく予感の中、子どもに指し示す未来像や生き方を持てなくて、困っているのは、それを押し進めてきたオトナなのです。

今、子どもたちに必要なのは生きる手本となる成熟したオトナであり、オトナに必要なのは「オトナ基本法」ではないでしょうか。

    ◎         ◎

     「オトナ基本法」

 第一条 オトナはよりよい生き方を求めて不断の努力をする。
 第二条 弱いものいじめをしない。
 第三条 学歴、地位、職業、によって人を軽んじたり差別したりしない。
 第四条 子どもを商売の道具にしない(子どもを市場としてとらえない)。
 第五条 人生を楽しむ。
 第六条 自分が大切だと思う価値観を守るためには、相手が誰であれ対話する努力をする。
 第七条 金儲けのために環境を破壊しない。金儲けのために貧乏な人を利用しない。金儲けのために戦争をしない。
 第八条 法やルールは公平に適用する。
 第九条 不正に対する黙認、看過と正義の不実行は悪である。

    ◎         ◎

思いつくままに挙げてみました。

オトナが子どもを変えることはできないと思います。ただ、オトナが成熟していく姿を見せることで、子どもにさまざまな可能性を示すことはできます。

自分を含んだ社会システムとまともに向き合い、自分の持ち場を変える勇気を持つ。思考し、実行し、ガタガタもめて、挫折する。挫折したのは何故か考える。そして失敗を含めた記録を残す。そういう伝承の繰り返しの中で生まれるのが、世代を超えた価値観なのです。

規範とは、その価値観の土台があって初めて共有できるものです。

二一世紀の日本は、そうやってオトナと子どもが一緒になって学ぶ意味や働く意味を再確認するところから始めていかなければならないのではないでしょうか。その対話の中に教育があると思うのです。


初稿「教育 ながさき」
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