「原則逆送」の影響
会員・弁護士

 このところ学習会も運営委員会も御無沙汰しっぱなしで御免なさい。「子どもの視点から少年法を考える情報センター」の内容補充についても気になりながら加藤さんに御迷惑をかけっ放しです。なにで忙しいかと聞かれると困るのですが、家庭内虐待や施設内虐待など、福祉関係(私の元々のフィールド)で毎日バタバタしているのです。なぜ困るのか、と言えば、そんなことは市民の会をサボる理由にならないからです。みんな自分のフィールドを持ちながら「市民の会」にかかわっているのですから。(すみません、分かってはいるのですが。)以上は前書きです。

 最近、おととしの少年法「改正」で盛り込まれた「原則逆送」事件、つまり16歳以上の子どもが故意に他人に危害を加えようとして死亡させた事件(殺人や傷害致死、強盗致死等)について、全国の家庭裁判所がどれだけ「原則」どおり「逆送」(刑事裁判を受けさせるために検察官に戻すこと)にしたか、最高裁判所で調べた集計結果が発表されました。「改正」前よりも逆送したケースが増え、裁判官が「改正」の趣旨に忠実に行動する傾向が強くなったことがハッキリしてきました。もちろん全部が逆送になっているわけではなく家庭裁判所の保護処分(少年院送致等)にしているケースもありますが、全体として「改正」の趣旨、すなわち子どもの反省状況や立ち直る力など個別事情を軽視し、行為やその結果など客観的事情(のみ)を重視して処分を決める、という傾向が定着しつつあるようです。

 しかも、このような傾向は「原則逆送」事件以外にも広がっているようです。

 最近担当しているケースですが、高校生が父親の乗用車を無免許で遊びに乗り出し、遊び疲れの高速運転で路外に激突し、助手席の友人を死なせ、自分だけ奇跡的に助かって家裁に送られました。(鑑別所には入らず、いわゆる「在宅」事件です。)運転も初めてなので「業務上過失致死」罪ではなく「重過失致死」罪でした。かなり友達と遊び暮らしていた子どもですが、病院で意識を戻してから見違えるように真剣に生活するようになり、やがて学校にも皆勤して担任からも評価されるようになりました。幼なじみを死なせたことが心に重くのしかかり、線香を上げに行きたかったのですが、被害者の両親は悲嘆にくれて、受け入れる気持ちにはなりません。(それでも最近ようやく示談はできましたが。)彼は一生懸命お詫びの手紙を書いています。

 ところで私がびっくりしたのは、家裁の対応です。保護観察が最もふさわしいと思っていたところへ「基準では逆送ですよ、違反重大、結果重大ですから」と言われてしまいました。「業務上過失致死」にしても「重過失致死」にしても「原則逆送」事件ではありませんから、現在の少年法でも子どもの反省状態等を見て家裁の判断で保護処分にするのに何の遠慮も要りません。それなのに「基準」という言葉が出てくるのです。裁判所の内部で、こういう場合には逆送にする、という目安を相談して決めて(たてまえとしては個々の裁判官の判断を拘束できないので、おそらく正式には「目安」と説明するのでしょう、活字になって発表されているわけでもありません)、それと違う処理をしにくい雰囲気になっているのです。無免許で高速という重大な過失で、しかも死亡という重大な結果が生じている場合には、逆送という基準になっているようなのです。仮に「原則」であって例外もある、というのかも知れませんが、そもそもこのような「原則」を作ることも問題だし、子どもの反省が顕著で再非行の心配もないのに「例外」にも当たらないというのも硬直しています。

 子どもの行為やその結果を重視して処分を決める、というのは「原則逆送」を少年法に持ち込んだのと同じ発想です。「やったことに責任を持て」という発想です。子どもが責任をとるというのはどういうことなのか。自分のやったことの結果を直視し、自分が結果に責任を負えないようなことは絶対にしない、ということを学ぶことが、子どもとして責任をとることではないか。そのように学ぶことを援助するのが少年法の役割であり少年審判にかかわる者の役割だと思うのです。(私は彼に被害者の遺体写真について初めからは見せず、直視する覚悟ができてから見せました。)

 刑事裁判が好ましくない理由がもうひとつあります。被害者の過失の問題です。客観的には、一緒に無免許での無謀運転を楽しんでいた経緯があり、民事の損害賠償の考えでもかなりの過失相殺になります。しかし遺族に対して「おたくのお子さんにも落ち度がありますから」などということはあまり言いたくありません。刑事記録をコピーして読んでもらい、事故に至る経緯を自ずと分かってもらうようにし、その結果、(自賠責保険のほか)何とか支払える金額で示談ができました。ところが刑事裁判になれば、弁護人として法廷で被害者の過失を(情状として)主張せざるを得ません。しかしそんなことは加害者である彼の気持ちにもそぐわないでしょう。彼の反省を反省として深め定着させるには家裁の審判がふさわしいと思うのです。

 私としても以上のような意見を提出しているのですが、家裁はまだ結論を出していません。全く耳を傾けない、というわけでもないものの、「基準」の重みは大きいようです。「基準」や「原則」という発想を全く否定するつもりはありませんが(例えば車同士の衝突事故での民事過失割合など)、それがケースの全体的な理解や把握を妨げ、ひいては「思考停止」という弊害を生んでしまう危険をどう阻止するか、悩ましい課題です。私としては、子どもが自分の行為の結果に責任をとる、ということの内実を深め、社会全体で考えていくことが決定的に重要だ、と考えています。

<通信02.5月号より>
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