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黙っていられない!! 教育基本法「見直し」
2002年12月6日・ウィメンズプラザで集会

 子どもと法・21、子どもと教科書全国ネット21の共催で開いた「黙っていられない!! 教育基本法『見直し』」の集会は、約160人の参加で、元気が出る会になりました。特に光っていたのが若者パワー。会場にも若い人の姿が目立ち、司会の1人も若い中村元彦さん。
 そして、5人の若者の発言には大いに勇気付けられた大人たちでした。それぞれのお話の内容を、簡単にですが紹介します。

<中間報告の問題点−津田玄児さん>
 まず、弁護士の津田玄児さんが、中間報告の問題点をわかりやすく解説。15分という短い時間で申しわけなかったのですが、「見直し」の中味がよくわかりました。

 「見直し」の内容とは――

  1. 権利としての教育を人材作りの「教育」に転換させるもの――そのためにはエリートだけを伸ばす競争的教育制度が推進され、子どもたちが分けられていく。
  2. 新しい「公共」、日本人としての「アイデンティティ」という名目で、内心の問題に属する「徳目」を掲げ、それを体得させることを目的としている――個人の思想・良心の自由を侵害する。(本来1人1人がが考えるべき問題を国が強制することは、教育勅語と同じ)
  3. 教師・家庭・地域に対して、こうした「教育」に従った、人造りの教育行政に足並みをそろえさせる体制づくり――「公共」「愛国心」をみんなの義務にする。まず教師、そして親、そして子ども・・・。

 日本の教育制度の改革に求められることは、国連子どもの権利委員会の勧告(98・6・24・)に従って“権利としての教育”の徹底をはかること。しかし、今回の「見直し」はこの勧告をまったく無視して進められている。また、教育基本法は「平和」を希求して作られたものなのに、今回の見直しでは「平和」に触れた議論はまったくないことも問題だ。

<教育基本法勝手に変えないで−5人の若者からの発言>
 1人10分ずつという限られた時間でしたが、それぞれが自分の思いを自分の言葉で語ってくれました。5人の異なる個性がくっきりと浮かび上がり、しかも調和していてとてもいい話でした。

★ S.Nさん(大学生)
 教育基本法を変えようとする人は「自分勝手な子ども増えたことで、問題が起きている。だから公共心、愛国心が必要」と言うが、本当にそうだろうか。私たちは、自分の意見を主張できないほどに押さえ込まれてきた。一定の価値基準に合わない人は排除される。一生懸命大人の要求に応えて、自分らしさを殺して従順な生徒を演じていないと認められない。その息苦しさが不登校の子どもを増やし、いじめ、暴力なども生んでいるのだと思う。学校の中で優等生だった私は、あとになって自分何なのかわからなくなってしまい、すごく苦しんだ。大人が、上からの管理で子どもが育つと思っている限り、何も変わらない。
 自分のことを好きになってもらいたいとき「私のことを愛して!」なんて強制しない。国が愛国心を強制するのは、よっぽど自信がないのだと思う。日本は、北朝鮮を非難できない。「日本人」という言葉が何度も出てくるが、グローバル化というなら、自分の家族や友人やふるさとも、相手の家族や友人やふるさとも、どちらも傷つかないために戦争をやめればよい。「日本人」を強調することは、自分の国さえ守ればよいという意識につながり、差別意識も高まると思う。

★I.Sさん(不登校新聞社)
 僕はいま20歳だが、13歳から学校に行かなくなった。今回、初めて「教育基本法」を読んだが、「なんだ、いいこと書いてあるんじゃないか」と思った。「個の尊厳」など、学校で教わったことは一度もない。13歳で学校に行かなくなったのは、校則・規則が大嫌いだったから。靴下は白と決められていて、「黒の靴下は授業を聞く態度じゃない」と言われる。我慢強く、元気よく、素直・・・など“子どものあるべき姿”が確固としてあって、何故?と問うことは許されないまま、一方的に押し付けられる。
 いま、13歳から不登校の19歳の女の子の相談にのっている。彼女の両親、兄はみんな慶応大学卒で、そんな中で中学中退の彼女は、存在を全面否定されていく。いま、彼女は自分で手首を切るリストカットで、血の温かさでやっと「生きている」という実感を持てるという。考えないで済むからと精神薬を多量に飲む。これが、“あるべき姿”からはずれた人間に対する仕打ちだ。自分の幸せはみんな自分で考える。人に対して人ができることは、違いを認め合って生きていくこと――それしかないのだと思う。

★ M.Yさん(大学生)
自作の詩を朗読)
 小学生のとき、私は、いじめられっこだった。一生懸命強くなって勝とうとしてきたら、自分を見失い、自分の価値がわからなくなっていた。その後、大学生になり、世界の国々を旅して、やっと最近自分の価値が感じられるようになった。すべての人が、自分の価値を実感できる世の中がいい。

★ S.Yさん(大学院生)
 東アジアの戦後について、日本の戦争責任を中心に学んでいる。歴史の事実に向き合うことなしに、多文化共生はないと思う。
 教育基本法は、言葉が空疎ではなく、個人が尊重されていて、憲法に直結している。でも、若い人はほとんど知らない、知らされていない。今回の中間報告は、国家は権力であることを忘れさせるものだと思う。国家は個人の郷土の延長ではない。
 教育基本法、憲法の理念が守られなければならないという強い思いと同時に、私はどうしても「国民」という言葉に抵抗感がある。1947年は、憲法が制定された年であると同時に、朝鮮民族の弾圧があった年でもある。もともと英語では「people」だった言葉が「国民」と訳されたわけだが、愛国心を評価したり、拉致問題で朝鮮人の排斥があったりと、ナショナリズムが強まっている中で、「国民」という言葉を使うことにはとても抵抗がある。今、「簡易帰化法の制定=人権がほしければ国民になれ」という動きがあるが、「国民」という枠をはずしていくことが大事だと思う。

★ K.Rさん(薬害エイズ訴訟原告)
 7年前に実名公表に踏み切ったのは、どうしても国に責任を認めさせたいという思いからだった。国はそれまで公害裁判などでもいっさい責任を認めてこなかった。薬害エイズ裁判で裁判所が国の加害責任を出したことは画期的な勝利だと言える。ただ、僕は「謝罪」という言葉にこだわったのだが、「お詫び」という言葉になってしまったのは、今も悔しい。
 沖縄の平和記念資料館に行ったときに、地上戦や自決、家族での殺し合いなどの写真があった。大人が子どもを殺し、男が女を殺し、老人を殺し、最後に自分も自害する・・・。戦争責任が曖昧にされているのは、他国に対してだけでなく自国の民に対しても同じだと感じた。そしてそれは薬害エイズ裁判と同じだと思った。個人の責任が曖昧にされ、真実が曖昧にされる。同じことが繰り返されている。母はその写真を見て、12歳で殺されたエイズ患者の少年のことを思い出したという。幼稚園で通園拒否、小学校も転校しないと行かれなかったI君。僕は10歳以降の写真がない。母は「遺影になるのが怖くてシャッターを切れなかった」という。沖縄戦の写真を撮ったカメラマンはなぜシャッターを押したのだろう? 二度と繰り返さないために、悲惨さを伝えなければならないと思ったのではないか。僕も今後は薬害エイズで「死ぬ」のではなく殺されている悲惨さを伝えていかなければいけないと思った。そして、ひとりひとりの人が、自分のやっている仕事は一体何のためでどういう意味をもっているのかということについて、自分の頭でしっかりと考え、自分の行動に責任をもっていくことなしに、薬害エイズなどの再発は防ぐことができないという思いから、教育がどれほど大切か、と切実に考えるようになった。そういう意味で、今回の教育基本法「改正」はとても問題だと思う。後になって、自分の子どもや孫に「なんであのとき止めなかったの」と言われないように、現在を生きる僕たちの責任を果たしていきたい。

<今こそ私たちの思いを−青木悦さん>
 最後に、教育ジャーナリストの青木悦さんが、「自分の言葉で自分の実感を語る若者たちからたくさんの大切な言葉をもらいました」と語り、1946年生まれで、「公」が光っていた時代を知っている者として、教育基本法の「見直し」には絶対反対の思いを語ってくれました。
 歴史をひもとくと、必ずます教員へのしめつけがある。勤評闘争など若い人は知らないだろうが、さらに1965年には「期待される人間像」という答申が出され、経済発展に役立つ人づくりがすでに始まっている。この「期待される人間像」をつくったのと同じような人が、今度は教育基本法を「改正」しようとしている。
 私は20年間、ずっと「いじめ」の問題を追ってきたが、最近、いじめを「していない」と言い張る子どもの気持ちがやっと見えてきた。子どもたちはまわりがどんな意見を求めているかを丁寧に探って生きていくうちに、もともとの自分の意見がわからなくなっていく。そして、「いじめ」も自分の意見によって起こったことではないから責任を取らなくていいと感じていく。これは、私の母の世代が戦後に語っていたこととそっくりだ。「やらされた」「騙された」「気づいたらもう反対できなかった」・・・・・・。競争という名のもとに、子どもたちにとってはこの50年はずっと“戦中”だったのだと気づいた。一人一人が「どう生きていくのか」を考えることが、教育基本法の理念を生かすことだと思う。

 最後は「みんなでコール」で、2時間半の中味の濃い集会を終え、二次会も大いに盛り上がりました。アンケートもたくさんの人が答えてくれて、「穏かなのに毅然とした雰囲気の素晴らしい集会でした」「若い人たちの素直でしっかりとした言葉に、目がさめるような気持ちがし、またやっていかなければと背中を押されました」など、とても良い感触のものがほとんどで、本当にやってよかったな、と思えた集会でした。

<通信02.12月号より> 戻る
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